猫の気持ち 其の二


 はいはい、猫さんですよ。吾輩も軽く尻尾を振ってから挨拶を返してみせる。
「猫さんも濡れちゃったんだね。可愛そうに」
 憐憫の言葉をかけられると同時に、女性の腕が此方へと向かって伸びてくる。
 あっ、しまった。と思った時にはすでに手遅れであった。吾輩は女性の胸元へと抱え込まれてしまう。ついつい何時ものクセで愛嬌を振り撒いてしまったばかりに捕獲されてしまったではないか。こうなってしまうとしばらくは開放されそうには無いな、他人のフリをしてさっさと行き過ぎてしまえばよかったであろうに、とんだヘマをやらかしてしまったわい。
「待っててね、今拭き拭きしてあげるから」
 そう告げると、彼女はズンズン階段を上って行く。仕方がない、探偵事務所探しは一旦中断してしばらく御厄介になることにしようかのう。おやつでも恵んでもらって一休みしていれば、時期に脱出するチャンスも出てくるであろう、しばしのあいだ様子見である。
 謎の女性は、吾輩を抱えたまま二階へと登るとそのまま廊下を奥へと進んで行く。やがて玄関らしきものが見えてきた。
 少々年期の入った黒いドアが眼前へとせまって来る。表札は見当たらす、代わりにちょっと古ぼけた看板らしきものが玄関の横に掲げられている。
 『まかせて安心! 菅野探偵事務所』だそうだ。
 おや、ひょっとしてココが探していた探偵事務所なのかしらん――ただの独断と偏見なのであるが、胡散臭い詐欺師の臭いがプンプンするにゃあ。
 まかせて安心などと謳ってはいるが、イマイチ信用できないヘッポコ探偵だからこのような文言を付けるのであろう。顧客第一主義みたいなものである。
 いやしかし、彼女がお目当ての新しい飼い主であるとすれば、ちょっとリクエストと違うような気がする。別の探偵事務所なのであろうか?
 こいつはちょいと気掛かりになって来たな、詳しく調査してみる必要があると判断する。中に潜入して確かめてみることにしよう。
 名前も分からぬ美女さんは、そのままドアノブに手を掛け開けようとしてみるが開かない。鍵が掛かっているようであるな、と言うことは事務所の中には誰も居ないと言う事か。
「待っててね。今開けてあげるから」
 吾輩を一旦床へ降ろすと、肩掛けバッグの中から鍵を取り出し、玄関の施錠を解除する。
 そのまま玄関のドアを開けてスルリと中へ入ると、手招きして吾輩を事務所へと招き入れてくれた。
 おや、事務所の中に入った途端、ヒンヤリとした冷気が流れてくるのを感じる。ひょっとして空調が入ったままなのであろうか。
「あー、所長ったらまたエアコン付けっぱなしで外に出てるわね」
 うむ、予想どおり彼女は助手のようであるな。そうすると、やはりこの子でビンゴなのであろうか。今さらであるが事務所の名前をヤス君に聞いておかなかったのが悔やまれる。
 玄関を通り抜けて細い通路を彼女の後ろに付いて歩いて行く。五、六メートルほどで折れ曲がり、事務所らしき広い空間が眼前へと現れた。広さとしては四〇平米くらいであろうかのう、中央には応接用のテーブルと、そこそこ上級品と思われるソファが置かれてある。その奥には灰色の袖机付きデスクが一つ、おそらく菅野所長のものだと思われる。さらにその後ろにはブラインドの下がった大窓が壁一面に並んでおり、向かって左側は書類棚と事務用デスクがある。何やら可愛らしい人形や潤いマシーンが置いてあるところを見ると、どうやら彼女の仕事机のようであるな。
「今タオル持って来るから待っててね。ブルブルしちゃダメよ」
 へいへい、水も滴る良い猫ちゃんのまま待機することにいたそう。美人助手さんは肩掛けのバッグを来客用のソファーへポンと置くと、今度は右手側に見えるパーティッションで区切られた小部屋へと入って行く。おそらく更衣室か何かであろう。その隣には扉の無い通用口が見える。小さいガスコンロや換気扇のフードがチラリと見えておるので給湯室であろう。――そのお隣はお手洗いのようだな。
 事務所の間取りを観察しながら佇んでいると、しばらくしてまだ名前も分からぬ探偵助手さんがバスタオルを手に戻ってきた。
 吾輩はそのままバスタオルにくるまれてゴシゴシと揉みくちゃにされる。ゴシゴシゴシゴシ……。
「おウチに帰ったらお風呂で汚れもきれいに落としてあげるから待っててねー」
 うん、何と。家まで連れ帰ってくれるつもりらしい。こいつは有難いことだのう、とりあえずこの子の家でしばらくの間ご厄介になることにしようか。少し予定が狂ってしまっているかもしれないが、結果オーライであ~る。
「これで良しと。さーて、あたしも早く着替えよっと。靴下までずぶ濡れになっちゃったよー」
 彼女も先ほどのゲリラ豪雨には参ってしまったようであるな。駆け足で更衣室の方へと駆け込んで行く。
 さてと、吾輩はのんびりと昼寝でもして時間を潰すことにしようか。
 応接用のソファーへ飛び乗ってから、くるりと丸くなる。思いのほか上等な作りをしておるな、ふわりと沈み込むようにして吾輩の体を包みながら支えてくれる。これならなかなか良い夢が見れそうだ。
 しばらくすると、濃紺色のスーツに着替えた美人助手さんが更衣室から戻ってくる。そのまま事務机に付くと、パソコンを立ち上げてお仕事に取り掛かり始めた。
 エアコンの吹き出し口から漏れ出てくる微かな音と、時おり彼女の机の方から聞こえて来るキーボードの打鍵音だけが、瞑想に耽る吾輩に時が移り行くのを知らせてくれる。
 閉じた瞼がしだいに重くなり、吾輩の意識も静かに暗闇の中へと堕ちようとしたときであった。

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